第19回放課後倶楽部 平成17年1月29日(土曜日)
にっぽん大好きおおさか大好き 
「でもここがちょっと変やわ」
デビッド・ストーマー先生とバレンチナ V.オスタペンコ先生

  デビッド・ストーマー氏

【Profile】
1962年5月26日生まれ。ニュージーランド人。1983年ヴィクトリア大学卒業、文学士取得。1988年同大学にて文学修士に。1996年ロンドン大学にて文学修士に。大学にて非常勤講師を勤める傍ら、DJの仕事やウェブの仕事もこなすスーパー外国人。

【Speak】
大阪に15年近く住んでいるニュージーランド人です。その前は佐渡島で3年間を過ごしました。佐渡に住んでいたとき、カーフェリーと東北新幹線に乗って東京に行く機会が数多くあり、多分月に1回ぐらいは東京に行っていました。その3年の間2〜3回だけ大阪にも行きました。しかし佐渡を去って日本の都会の生活を体験したいと思いだしたら、なんと東京ではなく、悩まずに大阪に来ました。少しalternativeな気持ちで、わざと日本の中心と考えられた東京よりも大阪という理由がありました。けれども、大阪に来て楽しかった。友達ができたという理由がほとんどです。私の大阪での生活は、最初の4年と後の7年に分かれています。その間ロンドン大学でもともとの専門の歴史と、日本にいる体験を重ねて、日本史を勉強しながら生活しました。それから大阪に戻ってきて今関西近辺の3つの大学で非常勤講師をしています。 英語を教えることとともにイギリスで最初に知り合った仲間と一緒にウェブサイトのビジネスをやっています。ワールド・カップの時に日本に来る英語圏のファンたちのためのサッカー関係サイトのwww.soccerphile.comとして始まり、今は拡大して、全般的に英字で日本を紹介するwww.japanvisitor.comにもなっています。それに今全力を尽くしています。 個人としてのもう一つのやることはDJです。スター素材で作っていると思いませんが、音楽やダンスが大好きで3年ぐらいレコードを収集し始めてから、DJ活動を始めました。それに詩も大好きで、詩の力を今、育て中です! 現在、勉強した日本史は前ほど勉強していませんが、日本語に対しての勉強は今でも熱心です。ですからもう一つの仕事として和英翻訳をしています。けっして翻訳はいつも面白いといえる仕事ではないのですが、日本語の表現を上手に自然な英語に直せると、とても満足した気持ちになります。同じようにそのウェブサイトのビジネスを通して日本の体験を英語圏の人々にわかりやすいものにするようにがんばっていきたいと思います。

  バレンチナ V.オスタペンコ氏
【Profile】
医学博士、研究主任 88年ウクライナ、ドネポロペトロヴスク医科大学卒業。92年ロシア、モスクワ癌センター大学院卒業。92年―93年 ドネポロペトロヴスク医科大学、放射線科講師。93年―95年 関西医科大学放射線科留学。95年―99年 京都体質研究会研究員。99年より現職、尚生会 西出病院 温熱研究室研究主任。

【Speak】
始めまして、皆さん。Valentina Ostapenko,バレンチナ オスタペンコです。私は、昭和40年8月1日、ウクライナのDnepropetrovsk市生まれです。故郷のドネプロペトロフスクは人口150万人、有名な政治家ブレジネフ書記長の出身地で、宇宙開発工場があります。ソ連時代から農業も盛んな、豊な土地で、ちなみにソフィア・ローレン主演の名作の映画“ひまわり”の撮影も私の町の近所で行われました。私が日本へ来たきっかけは、約15年前、モスクワ癌センターの大学院生の時に、国際学会に参加した関西医大の放射線科教授田中敬正先生と出会ったことです。共同研究目的で、期間は6ヶ月間の契約でした。日本へ来た最初の頃は、慣れない国で、言葉も分からず、とても淋しかったです。当時28歳で、研究者としても余り役に立っていないと思いながら、大学の研究室ではとても緊張していました。帰るまでの日々を数えながらの暮らしでした。物価の違いも激しすぎて、50円の節約の為に前の駅で電車を降りて、歩いたり、他にも考えられないくらいケチった生活でした。その時、忙しいエリートの関西医大のスタッフの中にあまり友達がいなくて、辛く感じる時もありました。辛い時、駅まで走って、テレフォンカードを買って、涙を流しながら、お母さんと息子と話をしたりしました。電話代はいくら高くついても、気にはなりませんでした。“空に飛行機が飛んでいる時、ママの飛行機だと思っている”と6歳の息子の言葉に心が痛かった。当時、一番楽しかったのは、辞書を持って千林商店街で歩く事でした。
町の人々は私にとても親切でした。言葉を一つ一つ、引きながら、笑いながらの会話、今でも懐かしく思い出します。もちろん、それ以外にも、日本のお庭、お花、琴、踊り、すべて日本の文化に出会って、凄く好きになり、日本の生活にも慣れ、住みやすくなってきました。「一時的な事は一番長続きする」とロシアやウクライナで良く言っている事ですが、私の場合は、正にそのとおりだと思います。最初は6ヶ月と思っていたのが、あっと言う間に12年間という長い月日が過ぎてしまいました。6年ほど前から、大阪府の南、貝塚市の西出病院に勤めて、がん治療にたずさわる事になりました。弱虫の私ですが、今まで3百人近くの癌患者様に信頼されて、頼りにしてもらっています。今こそ生命の意味を考えたり、生き方を勉強したりする時期だと思っています。色んな事を乗り越えて、17歳の息子の事を心配しながら、様々なイベントいっぱいの暮らしをしています。今、私の頼りになっているのは、五つの「あ」です。それは、安心感、愛情、そして生活の安定と安全 。それから、日本に関して、とても深くなってきた愛国心です。あと、自分の中で望みと現実のバランスを保てたら、それ以上の幸せはいらないでしょう。


講義内容

 バレンチナV.オスタペンコ先生と、デビッド・ストーマー先生の登場に、参加者はちょっぴり緊張ムード。初めての外国人、しかも複数! が、お二人の大阪弁まじりの気さくなお話ぶりに、会場はすぐにアットホームな雰囲気に。

 大阪の病院で温熱治療研究室、研究主任として働かれている、ウクライナ出身のバレンチナ先生。日本でまず驚いたことは物価の違い! 来日当初の苦しい生活ぶりや失敗談を、ユーモアを混じえて語って下さいました。また、日本と母国との民族性の比較では、正反対な部分が多く、参加者も驚かされることが多々ありました。そして印象的だったのは、「どの人からでも学ぶことはある」「相手を認めることが大事」というお言葉。シナリオライターを目指す参加者にとっては、心に響く台詞でした。

 ニュージーランド出身のデビッド先生は、大阪のいろいろな大学、専門学校で講師として働きながら、DJやネットの仕事もなさる多才なお方。会場では、ギター持参で、母国の歌を披露して下さいました。そして、「文化の違いでコミニュケーションが不可能ということはない」「コミニュケーションは言葉によるものではなく、尊敬が伝わるかどうかである」等。心に残るお言葉を残して下さいました。


 戦争や生死といった重いテーマから、ファッション、ダイエットなどの明るい話題。「人が大好き!」とおっしゃる両先生から、素敵なことをいっぱい学べた二時間でした。
 

参加された方々のお声
・バレンチナさんが元気で明るくて、凄く元気になりました! ウクライナ人と日本人の死生観は違うのだなぁと驚かされました。デイヴッドさんの落ち着いた雰囲気が伝わってきて良かったなぁと思います。お二人共とても自然で、何人とかどこから来たのかなんて気にならないような、気にさせないような、そんな印象を受けました。やはり前向きに生きるという事はとても大事な事なんだと、考えさせられました。

・楽しい話をありがとうございました。外国の方から見た日本の印象は、ぼくが普段思っていることと似ていて特に面白かったです。ぼくも地方から大阪に出てきた時に大阪の人の「おおきに」に感動したことを思い出しました。

・外国人から見た日本というのはTVなどでしか聞いたことがなかったのですが、直接こうして伺うと伝わって来る事があります。それはまず、自分ありき≠ニいうこと。他人の目を気にして横並びに行動する我々との違いです。異文化という軽い言葉ではなく人対人のつながりが大切なのはどこの国へ行っても当然のことだと感じました。外国のお医者様のお話を初めて伺いましたが、皆、考えは同じ、病人を看る暖かいまなざしを感じました。お二人とも国籍は関係がないと言われます。この言葉にこだわるのは我々の方でしょうか。一茶の句はあらためてその奥深さを教えていただきました。

・お二人ともとてもきれいな日本語でお話の内容もわかりやすく楽しかったです。ありがとうございました。

・バレンチナ先生/彼女が単身飛び込んできた大阪で、彼女の人懐こさ、人間好き、何でも興味深く吸収していくバイタリティあるお人柄に感激。いつまでもお元気に活躍され、どうか日本を嫌いになられることのないように祈ってます。日本に来られた直後の日本の印象が興味深かった。デビッド・ストーマー先生/大変グローバルに生きて、立派に楽しくやっていらっしゃるのが魅力でした。見事な日本語も分かりやすかった。日本の個人の時と団体の中に入った時と違いが大なのが戸惑います。


・バレンチナさんのお話では日本での物価の高さなどご苦労があった様でそれがよく伝わってきました。ストーマーさんは日本語がお上手でニュージーランドの歴史などがよく分かりました。

・私も電信柱が不思議です。風が強い日にヒューヒューと電線が鳴るのが今でも恐いです。