しなりお交信局

あ シナリオを書こう!!

とは言ってもスラスラ話が浮かぶものではありません。
頭の中はいつもこんがらがって出口のない迷路に迷いこんだよう…。
みんな経験しています。

このコーナーは、そんな時のヒントになる、
シナリオ・センター大阪校講師のエッセイ集です。

 


  その1 「自分で考えなさい」 倉田 順介

  その2 「癒しの流行」 小島与志絵

  その3 「捨てたもんじゃない…」 小島与志絵

  その4 「自分にな」 倉田 順介

  その5 「持っている」  小島与志絵

  その6 「ダンスを見て…」 小島与志絵

  その7 「シナリオはどこからくるのか」  辻井康一

  その8 「触れる」  小島与志絵

  その9 「捨てたもんじゃない…」   小島与志絵

  その10 「生きた、書いた、愛した」  小島与志絵

  その11 「声を大にして伝えたいアドバイス vol.1」
                                 高野昭二
   その12 「舵取りをしっかり」  小島与志絵

  その13 「大阪風男と女の愛し方…」   小島与志絵

  その14 「この勉強は恋に似ている」  小島与志絵

  その15 「声を大にして伝えたいアドバイス vol.2」
                                 辻井康一

  その16 「いじめドラマは面白い」   小島与志絵

   その17 「真摯とは…」         小島与志絵

  その18 「明日…」            小島与志絵

  その19 「声を大にして伝えたいアドバイス vol.3」
                              河野雅人

  その20 「大阪校 お茶事情」     小島与志絵

  その21 「『愛している』というセリフ」 小島与志絵

  その22 「声を大にして伝えたいアドバイス vol.4」
                                 狩山博臣

  その23 「せっかち」           小島与志絵

   その24 「ピアノのような雲」      小島与志絵

   その25 「あいまいな言葉」       小島与志絵

  その26 「声を大にして伝えたいアドバイス vol.5」
                                 足達りつ子 

  その27 「惚れる」            小島与志絵

  その28 「『恋う』『慕う』」        小島与志絵

  その29 「言葉の移り変わり」     倉田 順介

 

自分で考えなさい

 今から丁度四十年前の話である。

 当時、私は宝塚映画でTV映画の脚本を書いて、初めて脚本料を手にした。天にも昇る気持とはこのことだ。

  そんなある日、次長に藤本義一氏と二人呼ばれて、川島雄三監督の『暖簾』(森繁久弥、山田五十鈴、乙羽信子)で脚本の手伝いをしろと言われた。八住利雄氏の立派な決定稿が出来上がっているのに、何で手伝いなのか……。不安を抱きながら川島監督の宿に行く。

  監督は「ご苦労さん」と言ったきり仲々本題に入らない。色々雑談している内に、監督は「あなたは落語全集を持っていますか」と訊ねられた。残念ながら二人共その時持っていなかった。すると監督は「喜劇を書こうとするライターが、落語全集も買ってないなんて……」と侮蔑の眼差しである。二人は冷や汗で俯向いたまま。やっと監督は脚本を取り出し、シーンbノ丸印をつけて、「このシーンを面 白くして下さい」とたった一言。

 部屋に帰った二人は思わず顔を見合わせた。(面白くしろ)注文はそれだけである。

  翌日、それぞれが五、六枚の原稿を持って行く。監督はゆっくり読み終わると、黙ってその原稿をすーっと返される。思わず「あの、どこが悪いので……」と言うと、一瞬恐い顔をして「あなた達はプロでしょう?」と訊く。藤本氏はともかく、私は脚本料を貰ったばかりのほやほやである。監督はニヤリとして「高い安いはあるけど、金を貰えばプロですよね。プロなら……」と後は何度も頷きながら原稿を突き返される。

  さあ困った。二人は考えた。その内二人は思い出す。確か三枚目で監督は、ふ、ふ、ふと笑ったぞ。慌てて三枚目を読み直す。そうか、このセリフで笑ったのだな。

  例えば八住氏の書かれたこんなシーン。番頭の吾平(森繁)と女中のお松(乙羽)は恋仲だ。ところがお松の母親が急病で、明日淡路島に帰らなければならない。吾平はお松を今宮戎に連れ出し結婚の約束をしようとする。正月の今宮戎は人出人出の喧騒。二人はついにはぐれて離ればなれになる。

吾平「お松っちゃん……お松!……お松!」
   呼べど叫べど、お松の姿はない。

 さて、このシーンが
吾平「お松っちゃん…どこや、どこ行ったんや!」
   ふと吾平、自分の掌を見る。福笹で切れて手に血が滲んでいる。
吾平「あっ手が切れた! 手が切れたがな!」

  そして次のシーン。
   淡路島に渡る蒸気船の汽笛。ボーと鳴る甲板にお松がぽつんと立っている。に続く。

  後日、落語全集を買って驚いた。落語のオチに何種類かあり、その中にシャレ落ち、というのがあった。監督の要望は、シーンのオチが欲しかったのである。

  人から教えられるのではなく、自分で考え工夫し、苦労したことは、決して忘れないことを私は初めて知ったのである。

倉田 順介

 

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癒しの流行

 アロマオイル、お香、α波サウンドCD、ハーブティ等、癒しグッズが流行っています。

  わたしはなんにでもすぐハマるたちですので、積極的にハマッテ楽しんでいます。こんなわたしが云うのも矛盾していますが、癒しの流行に「ちょっと待って」とシグナルを送りたい気持ちがあります。

  このごろシナリオに感じるのですが、主人公が鋭角的でありません。

  さぁ、右か左か前か後ろか、どっち? 生きるか死ぬ か? 選択を迫られる崖っ淵にまで追いやられていないのです。抗菌グッズや癒しグッズ、サプリメントによる栄養補給でスポイルドされた現代人の弱さを危惧します。

 心のなかに部屋があるとします。その部屋の、手を伸ばして届くか届かないかのあたりの上の方に棚があるとします。その棚にいちばん痛みを感じることを、しまいこんで生活している風潮はないでしょうか? 
 
 それを処世術だと云う意見もあるでしょう。また生きてゆくためには当たり前だとも。もちろん、世の中には真に癒しを求める人も多くいらっしゃるとは思います。でもわたしたちにとっては、癒しの流行に「ちょっと待って」とシグナルを送りたいのです。人間を描くことがシナリオなのですから…。

小島 与志絵

 

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捨てたもんじゃない…

 と思った最近のできごとです。

 お昼前の電車のなかでのこと。きつい日ざしが射す席しかあいておらず、わたしはそこへ座ることにしました。ブラインドをあげようとしたのですが固くてなかなかあがりません。隣の席では、中学1年生くらいの女の子が、ペチャペチャキャッキャと携帯電話でお話をしていました。

 しかしブラインドに苦戦しているわたしに、立ちあがり、手を貸してくれたのです。携帯片手にもう片方の手で。

 結局ブラインドはあがらず仕舞いでしたが、わたしは女の子に「ありがとう。もういいわよ」と云いました。電話相手の友達が「何してるの?」ときいたのでしょう。「ウ〜ン、窓があがらへんねん」と答え、「まあ、ええわ」と依然お話を続けていました。

  よく若い人のマナーが問われます。でも、マナーは案の定でも、困ってるひとにはすぐに手を貸すことのできる若いひとだっているのです。

  ステレオ・タイプのキャラクター打破は、案外このような「捨てたもんじゃない…」と思えることからの、ささやかな喜びに端を発しているのかもしれません。

  そんなことを思い巡らしながら、電車を降りてスタスタ歩いてゆく小さなスーパーウーマンの後ろ姿に、もう一度「ありがとう」と呟きました。

小島 与志絵

 

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自分にな

 子供の頃、母の実家に帰ると不思議な思いがした。実家の奥座敷に奇妙な額がかかってある。太い筆でぐねぐねと、字が時には絵のように見える。何が書いてあるのかよく解らない。処が不思議なことには最初の言葉だけは辛うじて読める。

  その言葉が「自分にな」  私は何故か知らないが「自分、にな」と読む。なぜそう読んだのか、今になってもその理由がわからない。

  ある時「にな、てどういうこと?」と母に訊ねると怪訝な顔をする。私が額を指すと、母はコロコロと笑って「自分に、な」だと云う。後で解ったことだが、額にはこう書かれてある。

『   自分にな
    なまけるな
    おこるな
    いばるな
    あせるな
    くさるな
    おごるな   』

 こう書けば、なーんだとなるが、前衛的というか、達筆というか、子供の私にはなかなか読めない。

  伯父の話では、偉いお坊さんの書だと云う。私はこのことが忘れられなくて、中学時代、作文に書いたことがある。

  そして現在、この教えが人間としての訓え万人に通じるものとつくづく身に沁みる。私はふと、シナリオの世界に通 じる「な」を考えてみた。幸い、手許に「シナリオ・センターのミソ帳」がある。新井先生の「シナリオいろは」からヒントを得て、私なりの「自分にな」を書いて見る。

『   逃げるな
    あきらめるな
    やめるな
    人に頼るな
    退屈させるな
    説明するな
    理詰めで書くな
    ルーズな書き方をするな
    いい加減なタイトルをつけるな 
    …  …    』

 「書くな」とか「…という書き方をするな」というようなものは限りがない。どうかご自分で「自分にな」を創って、それを守ってください。

倉田 順介

 

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持っている

 倉田先生と同じ原作本や小説を読ませていただいた折り、読み終えられた先生が、「この人(作者のこと)は持ってるなぁ」とおっしゃることがあります。わたしはその都度、何気なく掘りさげもせず偉そうに、「そうですね。持ってますねぇ」などと答えてきました。
 しかし「持ってる」とはなんぞや。何を持ってることを「持ってる」のひとことで先生はおっしゃってるのだろうと、ハタと考えてみました。

  こだわり、美意識、哲学、人生観、テーマ性…色々あります。しかし行きつくところは「作家の眼」に違いありません。

  反して、ひねくれた処のあるわたしの好きなコトバに、「作家は作家になるまでが作家」と云うコトバがあります。プロセスが大切。作家になってしまえばもうその時点で作家にあらず。

 例えば、銀座で女の人に囲まれて悦悦といい気分になったり、書くことよりも公演でのお金儲けにかまけたり、既に精神性としては作家ではなくなっていると言う意味のコトバです。

  すると「作家の眼」も同じく、養おうとするがために、暗中模索のなか、喘ぎ喜び哀しみ、時には憎しんだり、又、反省して理解を求めたりして生きている我々のプロセスこそ大切なのであって、そこが「シナリオ・センターの生徒さんたちは眼が輝いている」と云っていただける所以かと思います。

  今夏は例年にないほどの猛暑。しかし、眼だけは高きをめざしてキラッと輝いていたいものです。

小島 与志絵

 

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ダンスを見て…

 夏の一夜、BSのソシアルダンス選手権を見ました。馴染みのないわたしは、「シャルウィダンス」の竹中直人を思い出しては、吹きだしたりしていました。ところがところがです。段々とこれはすごいと思うようになったのです。

  ラテン部門での決勝戦。タンゴ・チャチャチャ・サンバ・ルンバ・ジャイブ。なにがすごいと思ったかと云いますと、圧倒的な点数で一位 に輝いたアメリカ人のペアのハーモニー感覚の斬新さです。

  男性は体の線を露出させた衣裳の他選手のなか、敢えて抑えたグレーのタキシード。女性はアシメトリーカットのシンプルな白のドレス。健康的な肢体美はもちろん視覚に迫りますが、今の時代の健康的な男女の在り方が思想として振り付けから伝わってくるのです。

 例えば、離れて並んでステップ。どちらかに見せ場があると続いて片方も見せ場を。互いの見せ場を受け止める翳りのない笑み。平等感と男女のハーモニーの現代性を感じました。

 失礼になるかも知れませんが、日本人選手のペアからは、女は甘えて庇護される者…と云ったものしか、わたしには感じとれませんでした。聞くところによると、このアメリカ人の男性は、ソシアルダンスの最高峰にいながら、一方でジャズダンスを熱心に研究しているそうです。

  思想と云うのは高邁さから発するのでなく、反対に謙虚な努力から発するものだと痛感しました。シナリオ以外の多方面 のことに謙虚な姿勢で興味を抱いてみませんか?

小島 与志絵

 

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シナリオはどこからくるのか
 シナリオは、私たちの心の奥底からきます。この心の奥底からどのように汲みあげるのか、それが問題です。

 私が作品を企画するときに使う方法を紹介します。

 原稿用紙の裏の真中に課題を書きます。その周囲の空白に課題から連想するものや、実生活で体験し、記憶しているものを無秩序に書き並べていきます。この作業につき合っていると、突然、心の中にキラリと閃くことがあります。「あれ?」と云う感覚みたいなもので、「これなら書けそうだ」、そんな感じの何かのイメージだったり、行動だったり、シチュエーションだったりします。

 それが発展して、次第にある人物とその行動の形に結晶していきます。あとは明確な輪郭をあたえてやるだけで作品が生まれます。

 「私の心の奥底にはシナリオがある」 そう信じて挑戦してください。必ず書けます。

                                   辻井 康一



                                戻る                                        
触れる
 お医者さんのコトバに「触れる」と云うコトバがあるそうです。動脈に触れることなのだそうですが、なにか、「医は仁術」を連想させられる、一種非科学的な職人用語のような、このコトバに惹かれます。

 体のどの箇所に「触れる」処があるかと云いますと、手首の内側、足の甲の真ん中あたり、肘の内側、首と顎の間の耳の付け根に近いあたり…。「触れる」コツとしては、力をこめて押しすぎてはダメなのだそうです。自分で自分を触れてみますと、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ…まさしく生きてる実感がします。

 シナリオのコトバでは「琴線に触れる」と云うのがありますね。この場合も力がこもっていては触れられません。

 しかし思いあたりませんか? 渾身の力をこめて触れようとしていませんか? ここぞと云う処で長ゼリフでテーマを叫ばせて…。作者は描きたいことを描き尽くせて気持ちがスカッとするかもしれませんが、これでは全く観客の心には触れられません。こんなに力いっぱい押したのでは、お医者さんでも患者さんに触れられません。失敗です。シナリオライターも同じです。

 相手を思いやって、触れてください。すると却ってくるものがあるかも知れません。ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ…と命の音とともに。

                                  小島 与志絵



                                戻る
捨てたもんじゃない…
 と思ったもうひとつのお話です。

 センターの帰途、阪急南方での踏み切りでのこと。

 この周辺は夜になると風俗店の呼び込みのお兄さんがいっぱいいます。その夜、遮断機が降りかけたときに、お酒のはいった千鳥足のオバサンが、無理矢理、踏み切りを渡ろうとしました。

 ところが遮断機が降りてしまったのです。千鳥足のオバサンは動揺も手伝ってか、線路の上に転がってしまいました。おまけに財布から線路にばらまかれた小銭をオバサンは、転がったまま拾っているではありませんか。

 「あっあー、危ない」と思いながらも、私はその瞬時立ち尽くすだけの人でした。ところがその瞬時の間に、ひとりの茶髪の呼び込みのお兄さんが遮断機を力いっぱい押しあげ、オバサンを救いだしたのでした。

 救われ、立ちあがり、ヨロヨロと階段をあがり、京都行きの切符売場へと向かうオバサンは、お兄さんに「ありがとう」とも言わず終始無言だったのです。バツの悪そうな後ろ姿でした。

 哀しくて嬉しい夜の一齣でした。

 それから数日後、駅周辺では警察が呼び込みの人たちを、順に検挙していました。なんらかの決まりでしょっぴかれたりする若者たちのなかにも、瞬時に人を助ける本能のある人がいるのです。

 あの夜のお兄さん、わたしはしっかりあなたを見ていた者です。

                                  小島 与志絵



                                戻る
「生きた、書いた、愛した」
 これは文豪スタンダールの遺言です。モンマルトルにあるスタンダールの墓の墓碑銘には、「アルリゴ・ぺーレ、ミラノ人、書いた、愛した、生きた」と、遺言とは異なった順位で彫られているそうです。

 書いているわたしたちには、この順位にさまざまに考えさせられることがあります。果たして今どの順位にいるのか? この世を去るとき、どの順位でいられるのか? それ以前にこの三つが兼ね備えられた人生をまっとうできるのか?

 わたしは予てより男女の愛は、愛情と友情と情とがシーソーのように、どれかが上がり、どれかが下がりして、平衡を保っているのではないかと思ったりしています。人生に於いても、生きること、書くこと、愛することが、平衡を保つのかも知れません。


 もう一人、生きて、書いて、愛した人のことを…。


 ずいぶん前のことになりますが、倉田先生がこうおっしゃったことがありました。

 「僕は毎日ラブレターを書いているんだよ」
 
 だれへのラブレターかと云うと、シナリオ・センターのみなさんへのラブレター、つまり、毎日、先生が赤ペンで書かれていた添削のことでした。
 
 その人その人に良かれと思われ、ときには褒めて、ときには厳しく叱り、ときにはその人のかかえている書き方の欠点をわざと逸らして、永い永い間、毎日ラブレターを書きつづけられた先生。

 先生、たくさんのラブレターをありがとうございました。わたしたちから先生へのお返事は、素晴らしいシナリオを描くことです。お返事は必ず届きますから…。

                                  小島 与志絵
                                 
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舵取りをしっかり
 この冬、船旅をしました。

 その時にひとり旅のおばあちゃまとお知り合いになりました。2年前にご主人を亡くされた、湘南にお住まいの、お洒落で上品なおばあちゃまでした。
 
 亡くなられたご主人は読書をなによりものご趣味にされていた方だそうです。そしてその読書法は、常に3冊の本を読まれ、朝、昼、晩と読みわけられる方法だったそうです。シリアスな小説は昼間に、気楽なエッセイは就寝前にと云うように…。ステキな方法を教えていただいたと思いました。

 多忙を極める日々のなか、他の本へと目移りせず、1冊の本を最後まで読みきろうとするのもたいへんな努力です。でも義務感に縛られて、気がつけば、「本を読まされていた」と云うことにもなりがちなのかもしれません。

 その意味でこの読書法は、読み手がしっかり確立していてステキだなぁ…と思ったのでした。


 大阪校最新のビッグ・グッド・ニュースを。

 杉本明生氏がNHKの最優秀賞トップに輝きました。その作品のアイディア源は、夕刊新聞の「レスキューおじさん(お助けおじさん)」の小さなコラムであったそうです。(以前、杉本氏が1位を獲られたときも、テレビのバラエティ番組をヒントにされたと聞いています)

 B級をA級にまで転じてしまう才覚と意気込みに感服すると同時に、これもまたステキな自我の確立方法だなぁ…と思ったのでした。

    「読まされる」から「読む」へ。
    「書かされる」から「描く」へ。

  自分の人生の舵取りをしっかり。

 21世紀、シナリオ修行の荒波航海に出発しましょう!

                                 小島 与志絵

                                戻る
   
大阪風男と女の愛し方…
 とはどんなことでしょう?
 
 「夫婦善哉」に象徴されるような、しっかりモンの女と頼りない男のペア。近松作品にみられるような色香に惑う男と、社会的には薄幸であるが心の汚れていない女とのペア。
そして21世紀、どんな男と女の物語が大阪から生まれるのでしょう?

 恋愛感情のなかに人情が大きなシェアを占めるのが、大阪風男と女の愛し方の特徴ではないでしょうか。相手が落ち込んでいるときにこそ相手にしかと寄り添う…。親の人情を子が見て育っているからかもしれません。

 江戸ッ子には、大阪風の人情が同情と取り違えられて、東西間の人間感情の誤差が生じることもあるようです。得てして気風がよくて粋を尊ぶ江戸ッ子は、同情されては自分らしくリアクションができないから拒むのでしょうか。東京大阪間に限らずこの誤差は、悲しい人間関係の結果を生んでしまいがちです。

 「可哀想ったぁ惚れたってことよ」と云うコトバもあり、同情もさほど低い感情ではないと思うのですが、日ごろ触れるシナリオから推察して非常に乱暴に区分けすると、一番古いのは人情、受ける側があまり喜ばしくないのは同情、新しい都会的感覚は共感性へと、人への感情移入の糸口は移り変わっていると思えます。

 人がこぞって新しいと思いそうな都会風に流されては、それはもうその時点で新しいことではありません。また古いことばかりいくら巧く飾りたてて並べても、それはオタクにすぎず、後世へのメッセージ性に欠けます。

 わたしたちは大阪に住んでいます。大阪に住むあなたはどの糸口から愛し方を描きますか?

                             小島 与志絵

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声を大にして伝えたいアドバイス vol.1
 とにかく書く事、書き続ける事、そして書く習慣をつける事です。
 
 考えすぎて途中で止めてしまったり最初から諦めて原稿用紙に向かおうとしないのは最低です。どんな人でもTVや新聞は見るでしょうし、普段の何でもないエピソードや一寸した事件の中にもドラマの素材となる芽はひそんでいるものです。それを只スケッチするのではなく、素材と発想がひらめいたら、そこで自分が何を描きたいのかチャンと確認し、展開と構成を考えて書き始める事なのです。その為にはメモ帳を持ち歩き、心に惹かれた事は細大もらさずメモしましょう。
 
 有名なチェホフのメモ帳は、一言もしくは一行くらいの短いメモの集積なのです。それが出来ない人は日記をつける事。これも自分の感じ方、考え方を整理する良い方法です。
 
                                 高野 昭二

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声を大にして伝えたいアドバイス vol.2
 宿題の提出がコンスタントでないことが気になります。傑作を描こうと思わないで、あくまでシナリオの描き方のコツを身につける考え方で挑戦して欲しいと思います。それには一刻もシナリオのことを頭から抜かないようにすることです。

 意外と戯曲の古典、名作を読んでいないことが気になります。暇があれば是非読んで欲しいと思います。古典には、眼からウロコが落ちるようなドラマや、構成の秘訣がかくされているものです。

 テーマのはっきりしない作品が多すぎます。課題とテーマは別と言うことを認識して、先ず主人公は、その作品で何をするのかを明確に設定して欲しいと思います。そうすれば、テーマもわかりやすくなります。

 不安定な世情が続くと思います。若者の、大人たちの、老人たちの心を奮い立たせる作品、新しいエンタテイメントを目指して欲しいと思います。

                                 辻井 康一


                              戻る  
声を大にして伝えたいアドバイス vol.3
 ”なにげないあなたのしぐさが素敵です” 

 阪急電車の駅のプラットホームに置かれたゴミ箱に書かれたことばです。主人公に一味違う魅力を持たせる為に必要なもの。そのなにげないひとこと、思いやり、手を差しのべる気持ちが暖かい親しみのある人間を創り膨らませていくのです。しっかりとした人物像の裏付けのもと更に魅力ある人間としての一寸した味付けを楽しく創りあげましょう。ぜひ次の作品で生かして下さい。

 21世紀、貴方はどの様な映画を観たいですか。自分が観たい映画、シナリオを、ドキドキ、ワクワクしながら楽しく書いて下さい。それがすべての人々の心を捉え動かし、21世紀の心に残る作品となることでしょう。何とすばらしいことでしょう。

 心から応援し、楽しみにしています。

                                 河野 雅人            

                             戻る                    
声を大にして伝えたいアドバイス vol.4
 ゼミクラスの20枚シナリオは、ドラマの基本を習得する場。感動する話もさることながら、取り組む姿勢の基本中の基本は、

●20枚で収まる話。ひとつのエピソードを掘り下げる工夫。
●主人公は誰なのか、誰の心情が中心の話かをしっかり決めて進め
  る。
●課題の意味を調べ、それが反映されているか。
●対立、葛藤のないきれいな話になっていないか。
●コンスタントに書き続けているか。

  ではないかと思います。

 シネコンブームで映画館が増加しつつあり、テレビも多チャンネル時代を迎える21世紀。メディアの多様化の時代です。個性がさらに細分化され、ターゲットやジャンルを絞り込んだ作品づくりが始まるでしょう。そうした中、自分の得意分野を確立することが大切です。ファミリーレストランではなく専門店志向で、『これなら私の分野』をひとつ持つことは強力な武器。21世紀がみなさんのステージになるよう頑張ってください。

                                 狩山 博臣

                               戻る
声を大にして伝えたいアドバイス vol.5
 「20分で晩ごはん」ってTV番組を知ってますか。

 食材と調理器具を前にした料理人が1人で創作料理を解説しながら作って、20分で仕上げるというもので、これって20枚シナリオを仕上げていく作業に似てませんか。教室でわいわい味見しあって、あしたはもっと新鮮なネタでおいしい晩ごはんを作ろうと、市場(世間)へ出かける度、素材を見る目を肥やし、包丁さばきや匙かげんになれていきます。シナリオも書くほどに作品が熟成していきます。

 毎日何気なく流しに立つのと同じで、書くことを習慣にして、つまり「書きぐせ」をつければ、負担に思い始めてる課題だって「20枚を1週間」できっと楽しく書けるようになりますよ。

                                 足達 りつ子


                               戻る
この勉強は恋に似ている
●出会いはドラマティック
●熱愛
●センチメンタル
●素直
●実感
●ドラマのようにクライマックスはなくて
●それでも幸せ
●継続は力なり
●努力
●ドップリ
●追いかけすぎると逃げてゆく
●押してダメなら引いてみて
●ときには浮気も
●浮気が本気になったらサヨナラなんて
●遠い遠い存在なのに
●恋焦がれてやまない
●あまりに辛い日々なので
●ほどよく熱して、ほどよく距離をおき
●みつめる角度を試行錯誤
●新鮮革命
●自分改革
●伝えたい心を大切に
●ラブとヒューマンの結合
●共感できる友も得て
●自分に戻る
●そしてシンプルに
●やっぱりシナリオが好き

好きこそものの…と云いますが、シナリオは、ものの上手なれ以前に、すごくすごく奥が深くて、とにかく、面白いのです。
このダンディでストイックなシナリオの勉強に恋したわたしたちは、
果たして幸せ?
不幸せ?

                              小島 与志絵


                              戻る
 
いじめドラマは面白い
 先日、女優の新珠三千代さんが亡くなられたとき、テレビで『細腕繁盛記』が繰り返し流されていました。爆発的な人気を博したドラマに、そう云えば…と「いじめドラマ」の数々のヒット作を連想しました。
 やはり、いじめドラマは面白い。

 関連して、「判官贔屓」とは?
 「源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて弱者に対する第三者の同情や贔屓。」と辞書にあります。

 そこで、「いじめ」バージョンのブレーンストーミング。
 ポイントは、この「弱者」のとらえ方ではないでしょうか?

  ○男が女にいじめられる。
  ○舅が婿にいじめられる。
  ○社長が社員にいじめられる。
  ○政治家がアルバイトにいじめられる。
  ○医者が看護婦にいじめられる。
  ○教授が女子大生にいじめられる等。

 こうしてアベコベ設定を並べてみますと、辿りつくところは、『刑事コロンボ』に象徴される力の逆転であり、似非権威者の奢りの敗北をみることへの観客の痛快感であることに気づかされます。

 平成版「いじめドラマ」と云うと即、虐待のドラマに結びつけてしまうのは、時代のとらえ方の安易さや素材選びに願いのなさを感じ、あまりいただけません。

 今の時代の弱者をどのような人に置いてみるのか?
 その前に弱者とはなんでしょう?

 発想の転換にオリジナリティを希みます。

 そして、現実のいじめは救いがなくて心が押しこめられますので、ヘンなコトバですが、「明るいいじめ」が観てみたいなぁ……と思います。



                              小島 与志絵


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真摯とは…

 「まじめでひたむきなさま」と辞書にあります。

 先日、書道の大家の先生のお話を伺える機会に恵まれました。
 「何年くらいで書道はモノになれるものてすか?」
 とお尋ねしますと、先生、曰く、
 「二年くらい」とのこと。
 でも、人生へのこだわりや美意識が書に表現できるのは、大家でいらっしゃる先生ですら「まだまだ」とのこと。

 共通した感慨をいただいたことがありました。

 国立文楽劇場でのこと。
 人間国宝の義太夫の方が、勉強に訪れた若い人たちにお話しされるのを、一緒にお聴きできることがありました。
 国宝の義太夫、曰く、
 「あした、もっと良う謡いたい。あした、もっと良う謡いたい。その繰り返しです」

 創作に魂を純粋に捧げていらっしゃる方ほど、飾らず誇示せず、権威に踊らされず、謙虚に語られます。シンプルでひらたくやさしく、それでいてひたむきな想いに充ちた、このようなお考えをお聴きすると、姿勢が正されます。

 大家の先生や人間国宝の方でも真摯な姿勢でいらっしゃいます。
 ならば、なおさらです。


                              小島 与志絵


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明日・・・

 「時代によっても『明日』観は違う。中学生のこんなアンケート結果を見るとその思いが強い。『あなたの思い描く21世紀像』を尋ねる。一番多いのが『今よりも便利だが住みにくい世界』の49%で『今よりも便利で住みやすい世界』の30%を大きく上回った(B&G財団調査)。便利になることが住みやすくなること、かつてそんな信仰があった。しかし、今の若い世代には、もはや便利さへのあこがれはない。『明日』はそれほど明るくはない。」
 朝日新聞「天声人語」より抜粋。

 船旅にでました。船中レストランで給仕するフィリピン青年と、私語を交わせるようになったのですが、彼の、
 「ぼくは一生、船の給仕です。ぼくには希望、ありません」
のコトバに胸がつまりました。

明日・・・

希望がないと嘆きながらサービス精神を尽くして懸命に働くアジアの青年。

明日・・・

その気になれば希望もあるのに、住みにくい未来と愁うる日本の中学生。


乳がんで亡くなった友人の思い出。
闘病の際、彼女の使っていた団扇には、

 「 その気になれば
   明日からだって
   違う自分を
   生きられる 」

と手書きされていました。                   


                            小島 与志絵



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大阪校 お茶事情
 
 お茶は世に連れ、世はお茶に連れ。大阪校ゼミ風景お茶事情の移り変わり。

 私が大阪校に生徒として来たのは昭和63年の10月、14年前。ゼミに入ったのは明くる年の4月。当時ゼミでは早く来た人が後から来る人の為に急須で全員のお茶を入れ、用意して待っていました。思い出は、私の入れたお茶が濃すぎて深い深い緑色だった時のこと。ポットのお湯を足すなんて不調法なこともできないし、捨てると云うのも先生に怒られそうだし(?)、困ったなぁと思っていた時に、「お湯、足したらええねん」とすぐさま立ち上がりポットに向かって下さったおじさまのKさん。そんな何気ない優しさが今も心に残っています。Kさん、その節はありがとうございました。
 
 この頃は作り置きのお茶をポットに用意していますが、自前のミニペットボトルの人が増えました。抗菌面を考えて公衆のお茶を飲まない人も多いようです。確かに合理的衛生的ではありますが淋しい気持ちも否めません。ゼミが終わった後、湯飲みを一緒に洗ったり拭いたりする流れ作業。そしてその間にヒソヒソ慰めあったり励ましあったりして癒されて…。少々面倒でも不本意でも、みんなで気遣い同じお茶を飲むことにより、目に見えない価値を得ることもあります。合理性や衛生の重視も結構ですが、今の時代、価値観を臨機応変に選択できる人の方が、ちょっとステキな人生をすごせるのではないでしょうか?

 いずれ大阪校でもお茶の機械と紙コップを据え置き、セルフになる時代が来るでしょう。
今の処は美味しいお茶を飲んで頂きたくて、スタッフが額に汗して拵えています。

 古い女でしょうが、ときには粗茶をどうぞ。

                            小島 与志絵


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「愛している」というセリフ

 21世紀、死語となる日本語はたくさんあるそうです。久世光彦氏の『ニホンゴキトク』(講談社)の目次を繰ると、「辛抱・じれったい・冥利に尽きる・できごころ・うすなさけ・邪慳・夢ん中」他が記されています。「惚れた」の感覚が少なくなり、「愛している」というセリフがドラマで頻繁に使われるようになったことと近いことのようです。

 従来の日本語の「愛」という言葉は仏教的な意味から、執着する、貪るといった否定のニュアンスが強かったそうです。「色」を恋愛ととらえていた男尊女卑思想故かと思えます。

 「愛」が、今日のような肯定的な意味に変化したのは、聖書の翻訳が契機であったそうです。文章としての「愛」に違和感はないものの、セリフとしての「愛」には、空々しさを感じます。崇高なこの言葉をおいそれと口に出すことにはストイックになり、有り得ないのではないかと思い、結果的には英語を日本語に訳し、そのまま抵抗なしに使っているデリカシーの無さを感じてしまうのです。

 若い人は普段「愛している」と言うのでしょうか? 多分言う人は少ないと思うのですが、一度、伺ってみましょう。さりとて「惚れたゼ」なんてセリフを現実の生活で言う人も、いよいよ少ないでしょう。しかしドラマではキャラクターによってOKです。そこがフィクションのむつかしさです。さすれば「愛している」もOK。有り得ないセリフだからこそ、陶酔して聞いてみたい、あのスターに言わせたい、それもドラマの効役です。

 ただ、もし無神経に一行の「愛している」というセリフを書くのなら、「どのように愛しているのか?」を丁寧にエピソードとして考えて頂きたいとは思うのですが…。 

 
                            小島 与志絵



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せっかち

「牛になることはどうしても必要です。
われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。
僕のような老猾なものでも、ただいま牛と馬がつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。
根気ずくでお出なさい。
世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。
うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。
決して相手を拵えてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。
牛は超然として押して行くのです。
何を押すかと聞くなら申します。
人間を押すのです。
文士を押すのではありません。」

 これは最晩年の夏目漱石が、若い頃の芥川龍之介と久米正雄に宛てた文面の一部です。

 日本人は気質として、馬車馬の如く全力疾走することを素晴らしいことと捉えがちです。しかし牛になる勇気を。これはあるレベル以上の人への教えです。怠け癖の人が、「そうだ、私は漱石先生も推奨する牛なんだ」と思うのは論外。



 ゼミにて。
「取材しましたか?」
「本を読みましたよ!」
とプーッとふくれる人。
「ネットで調べましたよ!」と同様。

 せめて一日、一時間、馬車馬の如くキーボードを叩くのをやめましょう。そしてしっかり視つめてみましょう。

 大阪人は世界で一番せっかちなのだそうです。

                                小島 与志絵


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「惚れる」
 …辞書でひくと「心を奪われるまでに相手を慕う」とあります。

 かつて大阪校の5枚シナリオコンクールで「惚れた瞬間」という課題を出しました。「今どきの若い人に惚れるという意味が分かるのだろうか?」とご年配の先生からの心配のお声も。確かに死語の範疇。

 心を奪われるとはどんなこと?
 平常心を失うこと。理性で判断できなくなること。とにかく理屈じゃないこと。寝ても覚めても無我夢中。恋はもちろん仕事でもいい。勉強でもいい。心を奪われるほど夢中になれる人生でありたい。奪い奪われることに臆病な人はケチな人。お金にケチより心にケチは寂しい。惜しみなく奪い奪われる…創作者ならそうありたい。

 そこで思うのは大人のルール。例えば恋にしぼって考えて、闇雲に奪い奪われてヘトヘトに疲れ、根こそぎ果てたのでは洒落にならず醜悪。危なっかしくて、「迷惑な人」。大人のルールを守り、なおかつ上手く惚れられるには、相手への思いやりが必要。
 しかし、そこに到達できるのには、いっぱい失敗を繰り返すことが必要なのでは? 失敗を恐れていては、いつまでたっても大人のルールが守れる人にはなれなくて、グラスに浪漫の滴る芳醇な赤ワインに似た、真の「惚れる」醍醐味も味わえないような。

 これ、シナリオに置き換えます。失敗を恐れていては、いつまでたっても大人になれません。観客の心を奪えるシナリオが描けるようになるには、まず失敗を恐れず無我夢中になれるかどうかです。

 シナリオに惚れましょう。
 そしてお客さんを惚れさせましょう。

                               小島 与志絵


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「恋う」「慕う」 
「『恋う』…恋人に身も心もひかれる。『慕う』…(恋しく思い、また離れがたく思って)あとを追って行く。」(広辞苑より)

ラブストーリーのシナリオをもの足りなく思います。失恋して落ちこむ隙もなく、控えたる第二の異性の求愛にてラッキーな幕切れ。
モテル主人公が、周りからお膳立てされて容姿もよくお金もある異性から早急に求愛されて、まんざらでもないのにわざわざクールに振って、自分だけの夢に飛びこんでゆく(大抵は外国へ)。

これはどうしたことなのでしょう。主人公の魅力ゼロ。単にエゴ。


            影を慕いて(古賀政雄・作詞作曲)

            まぼろしの 
            影を慕いて 雨に日に
            月にやるせぬ 我が思い
            つつめば燃ゆる 胸の火に
            身は焦れつつ 忍び泣く   
 


日本人の慎ましさはどこへ…。近づきたくて近づけなくて切なくて、せめて影を慕いたい。こんな気持ちを今の世に抱いたものなら、周囲は「キッショーイ!」に「ストーカー」。
ストーカーはもちろん反対。でもラブストーリーの面白さは「恋は盲目」の非日常性にあるはず。
「キッショーイ!」と云われるくらい何さ! そんな度量で夢中で恋慕する、人間ゆえの哀しさ切なさ可笑しさ可愛らしさに、どっぷり酔いたいのがラブストーリー。ストーカーは尾行や携帯、メールのアクションに機関銃のように出るけれど、恋慕する人は耐えて慎み深く叶わぬ想いを募らせます。

そう、アンチがあるから恋慕が伝わるのです。ハイテンポならローテンポを。激しさがクライマックスなら耐え忍ぶ恋を。 
そんな恋はキショイでしょうか?
                               
                                小島 与志絵


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ピアノのような雲
 以前、構成が得意な方に描写性もと願われ、倉田先生が、
 「ピアノのような雲…と云う発想を」
 とポエムの一節からヒントを与えられたことがありました。きっとグランドピアノの形みたいな雲のことでしょう。モーツワルトのエチュードが聴こえてきそうです。とてもいいことのあった日、恋をした日かもしれません。見あげた水色の空に、ぷっかりと浮かんでいた雲のことなんでしょう。

 脚本家の依田義賢氏は、
 「私はシナリオを書いて行き詰まると、心の中のその部屋へ逃げ込むんです。純情で、子供のような、そんな詩の部屋を持っているつもりなんです。そこへ逃げ込んで、じっとしてる。そして純な気持ちというんでしょうか。そういうものにひたって、もういいなと思うと出ていく。そういう制作態度をずっと続けてきてるんです」(「スクリーンに夢を託して」・なにわ塾叢書 より)と語っていらっしゃいます。

 人形作家のおばあさまが創作するときの秘訣を語っておられました。
 「歌うように作るんですよ」と…。
 子守りしている姉やさんの人形。その人形の揺するように斜めに構えたS字型の腰の線や、薄く閉じられたやさしい目蓋からは、本当に稚児を愛しむ子守唄が聴こえてくるようでした。

 いくらコンピューターが進歩しても、詩は人間にしか作れません。
 二千二年は始まりました。
 人間にしか描けない心をシナリオに託しましょう。

                               小島 与志絵


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あいまいな言葉
 京都の舞妓さんのお話を伺った時のこと。「舞妓さんのお給料ってどの程度ですか?」と初老男性の質問。すると「お小づかい程度どすなぁ」とのお答。この「どすなぁ」が、「ドゥふなぁ」と、はんなりした余韻を残し、雅びな風情を感じました。ずばり金額を答えるのは野暮。あいまいな言葉は、直球の相手を旨くかわす言葉であり、人間関係の潤滑油にもなるのでは…と余韻に反芻しました。

 向田邦子さんの文章に、乗り合わせたタクシーの運転手さんに著名なシナリオライターと知られ、貯金の額を問われたくだりがあります。「たくさんありません。親の死んだ年齢くらいかしら」と向田さん。それを正しく把握できないのに正比例するほど、シナリオライターとは一律で計れない不思議な職業であり、あげく尋ねても無駄であることにゆきつきます。絶妙のかわし方です。

 人との摩擦の多い向うみずな若者を、心配されたあるご高齢の方が、「かわし方を知らない」と諭されたことがありました。例えば、同様に運転手さんに問われたら、その若者ならまずムッとするのでしょう。それでもまだ問われたら、「どうしてそんなこと聞くんですか? 放っといてください」なんて云うのでしょう。でも、こんなセリフの繰り返されるシナリオは、面白くもありませんし、機微も描けません。

 今、世をあげてあいまいさは否定され、明確に主張する人物の方が理知的であると好印象にとらえられがちです。しかしあいまいな言葉は人間味のある言葉です。関西に多いとも云われます。わたしたちにしか描けないあいまいな言葉と、そこに密かに息吹くやさしさやしたたかさ、たくましさを今一度、丁寧にふり返り、表現してみませんか?
 
                                 小島 与志絵

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言葉の移り変り
 言葉は時代と共に移り変って行く。

 シェークスピアの『ロミオとジュリエット』。
 その中のジュリエットのセリフが変化している。バルコニーの場のセリフを、三つの翻訳で比べてみよう。

 「もしそのお気持ちに偽りなく、結婚して下さるお積もりなら……」
 (1964年版、福田恆存訳)

 「もしあなたの愛のお気持ちがまことのものであり、結婚ということを考えてくださるなら……」 
 (73年版、小田島雄志訳)

 「あなたの愛に偽りがなく、結婚を考えているのなら……」
 (99年版、松岡和子訳)

 言葉遣いが新しくなるに従って、平易になっていることに気づかれるだろう。
 松岡氏は「原文では二人が対等な言葉で話しているのに、以前の翻訳ではジュリエットがロミオに対して過度にへりくだっている。昔はそれが品位や育ちの良さを表すと考えられていたからではないか」と話す。

 劇作家の永井愛氏は、十年前から家庭で「オイ、メシだぞ」など男言葉を使っているそうだ。劇作の為にわざと日常生活で試しているという。つまり女言葉の無性化が進んでいるのだ。いわゆる女言葉の変化である。

 「敬語はいらない」。こう言い切る言語学者がいる。「外国人が日本語を学ぶ上で、敬語が障壁になっている。日本人にも難しく、敬語に費やす労力は日本語を豊かにすることに回すべきだ。敬語の訓練をするくらいならもっと論理的な表現に凝った方がいい」
 岩波書店刊「新約聖書」(全五巻)。従来の聖書なら「御自分(イエス)」となるところが「自分」になり、「戒められた」が「叱りつけた」になった。翻訳者の言に「歴史書として福音書をとらえたかった。原文のギリシャ語に敬語がない以上、翻訳で敬語を使うのはおかしい」と言う。
 一方で、「先生が云うたはった」「先生、えらい怒ったはった」の、あの‘はった’という関西弁は云うに云えない敬語のニュアンスだという意見がある。

 ニュアンスというのはフランス語である。日本の国の言葉の中で、どれ程多くの外来語があることか。シャツ、ボタン、カステイラ、ワープロ、パソコン……等々。然もこれらの言葉はも早日本語として定着しているのだ。この外来語氾濫は益々増える傾向である。
 また、漢字がさまよっているという問題がある。戦後、政府は簡略化の為に当用漢字を推進した。処がつい最近「正しい漢字を復活させよう」という運動がある。伝統回帰ということだ。例えば麺(めん)という字が、?も復活させようというのである。漢字をめぐる混乱は、近年拡大するばかりである。
 こんな時代に、ワープロを捨てる作家たちがいる。いとうせいこう氏、阿部龍太郎氏、小松左京氏、等である。

「本来、漢字仮名交じり文は縦書きが筋。脳の中の思考を縦書きの手の運動に交換する習慣が消えるのは、文明史的に見ても損失になる」「思考が分裂気味になり、文章が薄っぺらになった感じがした」「ワープロの時は、頭の中の言葉をそのまま書いてしまうので早いが、推敲のない文章になりがち。手で書くと書きながら読んで頭の中でフィードバックする。文章鍛錬になる」 

  作家たちの言葉である。

 揺れ動く言葉の移り変りの方向はどちらに向かおうとしているのだろう。
 学者たちは次のように云う。「まず日本語、話す言葉と日本文学を区別する必要がある。話し言葉と表記とを分けるのだ。そして文芸家は国語改革を主導して行なうべきだ」と。

 ずい分乱暴な書き方をしたが、私達には決して放ってはおけない問題である。


                 校内新聞「しなりお」Vol.5より倉田順介

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