『環状線ぐるりひと周りシリーズ』
  〜なぜかしら大正編〜


以前にもカルチェ・オキナワネーズとして紹介したことのある「大阪の中の沖縄」、それが大正駅を語るときに欠かせないコピーですが、今回は敢えて沖縄以外のあれこれにスポットライトをあててみようと思います。

ちなみになぜ大正という名前がついたかというと、昭和7年に新区ができることになり、最初は市から「新港区」という名が提案されたのですが、住民は側が地域の象徴である大正四年に完成していたアーチ型の名橋「大正橋」にちなんだ区名「大正橋区」を望み、「大正橋区」は長すぎるので折衷案として「大正区」に変え決定されたそうです。
ですから橋は大正区にあるから大正橋ということではなく、また区も大正時代にできたから大正区いうことでもないのです。

大正橋1


ちなみに船の航行を妨げないようアーチ型だった橋は、昭和43年(1968)に架け替えられました。なぜかしら現在の橋の欄干にはベートーベンの交響曲第9番の「喜びの歌」がデザインされ、歩道にはメトロノームとピアノの鍵盤が刻まれています。

大正橋2


単にだれもが知っているという理由だけで選んだそうです。

さて、環状線が大正駅に近づくにつれ、真っ先に目に飛び込んでくるのはやはり大阪ドームです。

近鉄バッファローズの本拠地ですが、なぜかしらSMAPやRolling Stones、あるいは琉球フェスティバルなどのコンサートで訪れた方も多いのではないでしょうか?

SMAP恒例の夏の連続コンサートになると上気した若い女性グループや親子連れが駅に殺到するので、ひどい時には改札口から電車に乗るまで一時間かかったこともあるそうですし、Rolling Stonesのコンサートの時は何万人ものファンが一斉にジャンプするので、近隣のマンションの住人が大地震が来たと驚いたとのこと。

ちなみにバブルの終わり頃に郷ひろみがイタリアンレストランを作ったのも、なぜかしら東京やキタでもミナミではなくこの大阪ドームでした。

また環状線で一番最初に自動改札が設置されたのもなぜかしら大正駅でした。

そんな大正はもともとは淀川、木津川の加工に出来た砂洲でした。
江戸時代の干拓と新田開発でその湿地帯に人々が住むようになり、明治時代には埋め立てが進み、大阪の紡績産業を担った東洋紡の最新鋭の三軒家工場が稼動してからは“東洋のマンチェスター”と呼ばれたほどの繁栄ぶりでした。(当時大飢饉に襲われた沖縄の人達が働き場所を探してこの辺りの工場に働きに来て定住したのが「沖縄タウン」の始まりです。また川と水の都であった大阪の名残りである渡し船は現在ではベイエリアを中心とした8ヶ所にしか残っていませんが、その内の7ヶ所が大正区にあります。)

渡し舟1 渡し舟2


紡績産業の衰退とともに街はさびれていき、かつての工場の跡地は今、公園や小学校となり、女工寮の跡地には市営住宅が建ち並んでいます。

また戦後、「闇市」になっていた駅北側の一角は、工場や港湾建設の現場に向かう労働者を当て込んだ飲み屋街になり、商店主らが新しい商いの場を求め、駅周辺に集まってきました。

そんな飲み屋街の中に「クラスノ」という天然記念物のような居酒屋があります。
店名の「クラスノ」とは今もご健在なら90歳はゆうに超えておられるご主人、戦後ソ連に抑留された街の名前「クラスノヤルスク」からつけられました。

居酒屋


『クラスノヤルスク
ソ連の中央にある街です
抑留中の苦労をしのび
いかなる難関にもたえ
今をくいなく
我が身をやしない
世の為人の為』

クラスノのマッチより

店の特徴はとにかく安くてボリュームがあること。
例えば名物の湯豆腐はたったの100円で、出し巻きもたっぷり出汁が入ったスープ皿からはみでる通常の2倍の大きさです。
さらに漬物でも頼もうなら、刺身用の角皿に高さ5cmの山盛り!
だから予算は一人千円で充分です。

ご主人のお年のせいもあって、なぜかしら地元の客よりも不思議な店名につられて訪れる居酒屋好きが多いようです。

そしてなぜかしら鳩子が時折訪れたくなる街が大正です。