『町の名前』


大阪の南にある島之内という地名はご存知ですか?

北の長堀川、南の道頓堀川、さらに東西の横堀川に囲まれた一角を「島之内」と呼んでいました。東西南北の堀川に仕切られた所を島に見立てたことから、このような名前がついたのですが、現在地名に残っているのは堺筋の東側だけで、本来の「島之内」とはもっと広い地域を指し、船場と並ぶ問屋街が軒を競う大阪の中心地だったのです。


☆お初天神(北区)曽根崎心中の歴史から引用☆

「森は神社の奥にあるもんですから、境内の北側、お初天神通りあたりだったんですかな。当時は島之内が大坂の中心で、この辺りは北のはずれで、人通りのない寂しい湿地帯。逃れてきた二人にはちょうどええ場所やったんでしょう。自分の身さえ自由にならぬ遊女と、しがらみから抜けられない手代。そんな人がいっぱいおったんでしょうな」

島之内には手工業を営む者が多く住んでいたため、かつては町名がその仕事を表していました。しかし住居表示が変更されてからは、単に東心斎橋や西心斎橋というような画一的な街の名に変わってしまったのは残念なことです。ただ面白いのは、南区時代の旧町名が未だ通用しているところでしょうか。ここで道を尋ねるときは「旧町名」で聞く方が話が早い場合が多いようです。

☆南の長老の話より☆

 島之内は太閤はん以前は三津寺(みってら)村いう村やった。太閤はんの頃1594年に東横堀が、1600年に西横堀が開削されて、更に両横堀の水を海に流すための南堀川を成安(わてが小さい頃は安井と聞きました)道頓、安井九兵衛らによって開削され完成したのが1615年や。道頓はんは大坂夏の陣で西側の武将として参加、戦死しはった。この南堀川はその道頓の名をとって道頓堀となった。そして、長堀が1622年ごろできて島之内が形成されたということなんや。北の船場とは違って、こっちは元は手工業の町でおました。ところが、道頓堀を挟んで南側に芝居小屋や茶屋ができ、一大歓楽街に変貌していくと、その周辺はやはり歓楽街になっていったし役者、芸妓、中居はんらの住宅街にもなっていった。今でも「ミナミ」というと歓楽街のイメージがおますが、これは江戸の昔からのもんです。
 島之内にはぎょうさんの地名がおましたが、住居表示に関する法律によってそのほとんどが消え去り、今は「島之内」、「東心斎橋」、「心斎橋筋」、「西心斎橋」しかのうなってしもた。なんともえげつないことでんな。

それではかつて島之内にはどのような地名があったのでしょう?

畳屋町(たたみやまち)
鍛冶屋町(かじやまち)
錺屋町(かざりやまち)
笠屋町(かさやまち)
雪駄屋町(せったやまち)
玉屋町(たまやまち)
塗師屋町(ぬしやまち)
木挽町(こびきまち)
紺屋町(こうやまち)
竹屋町(たけやまち)
炭屋町(すみやまち)
米屋町(こめやまち)
灰屋町(はいやまち)
木綿町(きわたまち)
問屋町(といやまち)
周防町(すおうまち)
大宝寺町(だいほうじまち)
鰻谷西之町(うなぎだににしのまち)
鰻谷東之町(うなぎだにひがしのまち)
宗右衛門町(そえもんちょう)
 この辺りを開拓した山口宗右衛門の名がつけられています。
久左衛門町(きゅうざえもんちょう)
 この辺りを開拓した播磨屋久左衛門の名がつけられています。
心斎橋筋
三津寺筋
 三津寺という寺があります。
八幡筋

※島之内では船場と違い、東西の道にも「筋」を使っていました。

いかがですか?商業の街、天下の台所としての往時の大阪が偲ばれる名前ばかりではないでしょうか。
 街は突然に出来上がるものではなく、そこに住んでいた人たちの歴史やそれをとりまく風土が継続的に重層的にからみあってできあがってきたものなのに、このような風雅な名前をいとも簡単に消し去ってしまう行政の愚かさに呆れざるをえません。東京や京都では未だ従来からの地名が利用されていますが、特に大阪は旧き佳きものを大切にしない風潮が根強いようです。(と、ちょっと怒れる鳩子です!!!)



島之内にはたくさんの街灯があり、そこにかつての美しい地名がかかげられています。また堺筋の東側に行くと、旧い料亭が残っていたりもします。

さらに最近ではアジア各国の人たちが多く住むようになり、彼らを対象とした飲食店や食料品店、ビデオ店もたくさん出来ています。(タイ、フィリピン食材専門スーパーもあるのですよ!)

夜は人が多く誘惑の多い街なので、ぜひ週末の昼過ぎにでもぶら歩きしてみてはいかがでしょう?